聖書のみことば
2022年5月
  5月1日 5月8日 5月15日 5月22日 5月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

5月22日主日礼拝音声

 四千人の給食
2022年5月第4主日礼拝 5月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第8章1〜10節

<1節>そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。<2節>「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。<3節>空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」<4節>弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」<5節>イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。<6節>そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。<7節>また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。<8節>人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。<9節>およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。<10節>それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

 ただいま、マルコによる福音書8章1節から10節までをご一緒にお聞きしました。
 お気づきになったかもしれませんが、主イエスが大勢の人々を僅かなパンと魚で養ってくださったという記事は、ここが初めてではありません。今日の記事では4,000人余りの人々が主イエスによって養われていますが、この福音書の6章30節から44節には大変よく似た記事があり、そこでは男性が5,000人いて、 他に女性や子供たちもいたと思われますので、さらに大勢の人たちが主イエスの振舞いによって養われていました。
 6章と今日の8章では細かな点で違っているところがあるのですが、しかしそこに起こっている出来事は非常に似通っているために、元々は一つの出来事が二通りの仕方で言い伝えられたのではないかと取り沙汰されてきました。今日でもそのことを真剣に考える聖書学者が多くおり、数の上では、元々一つの出来事だったと考える人の方が多いと思います。

 そう言われますと、しかし果たして本当に一つの出来事だったのだろうか、二度あったのではないかと気になるのですが、しかし今日の箇所では、これが一度か二度か以上に、私たちが覚えておいた方が良い大事なことがあります。特に5,000人の給食の記事について言えることですが、この給食の記事は四つの福音書全部に出て来るのです。それがどうして大事かと言いますと、四つの福音書全てに出てくる記事というのは、多くはないからです。「主イエスが十字架にかけられ、苦しみ、お亡くなりになった。そして復活なさった」ということは、もちろん四福音書全てに出てきます。しかしそれ以外で、四福音書が口を揃えて語っている出来事は、この給食の記事ぐらいなのです。
 主イエスが大勢の人々を僅かのパンで養われたという出来事は、主イエスの御生涯の中の一つのエピソードというようなものではなくて、「主イエス・キリスト」という方を覚える時には決して欠かすことのできない、極めて大切な出来事として、教会の中で語り伝えられていました。それで四福音書全てに出てくるのです。教会の中で繰り返し語り伝えられていく、その間に元々は一つの出来事だったものが、いつの間にか二通りの言い方になってしまったというのは、いかにもありそうなことではないでしょうか。ですから、一度か二度かということよりも、「初めの頃の教会で、この出来事は、深く愛され大切に語り伝えられてきた」ということを受け取ることが大切だろうと思います。

 そしてそれと共に、もう一つ覚えておくべきことがあります。それは、この記事については大変厳しい主イエスの言葉が併せて記されているということです。
 今日は10節までを読みましたが、この記事は21節まで続いており、最後の21節を読みますと、主イエスが弟子たちに向かって「まだ悟らないのか」とおっしゃっています。「まだ悟らないのか」ということは、主イエスは弟子たちに悟ってほしいことが何かあったということです。この給食の奇跡が、ただひもじい思いをしている人たちの空腹を埋め合わせたというだけのことではなくて、それ以上の何事かを示そうとして行われたということをおっしゃっているのです。
 ところが弟子たちがこれを、ただ空腹が満たされるだけのことのように受け取っていることに、主イエスは苛立っておられます。この箇所だけではなく、6章の「5,000人の給食」の記事の後でも、やはり主イエスの御業を理解できずにいる弟子たちの姿が語られています。6章52節に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。「5,000人の給食」の出来事の後でも、弟子たちは主イエスが自分たちに何を与えてくださったのかということが十分に理解できませんでした。この時には、湖の上で漕ぎ悩んでいた弟子たちを助けるために主イエスが湖の上を歩いて来られた、そういう不思議なことがあったのですが、弟子たちはそのことに大変驚きました。そして、弟子たちが驚いたことについて主イエスは、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と言われました。
 今日聞いている「4,000人の給食」の後では、どんなことが起こったでしょうか。予備のパンを持って来るのを忘れ自分たちの食べるパンが足りないのではないかと動揺している弟子たちに対して、主イエスが「まだ悟らないのか」と言っておられます。
 ちょっと聞いただけでは、この二つの場面、「主イエスが水の上を歩いて弟子たちのもとに来てくださった」ということと、「弟子たちが自分たちの手元にパンが乏しいと話し合っている」ことに、どういう繋がりがあるのか、どういう関連性があるのかということは分からないのです。
 けれども、全く関わりがなさそうに思えるこの二つの機会に、主イエスは、「弟子たちがパンの出来事の意味を悟らない」ことを嘆いておられます。主イエスは、「僅かなパンで大勢の人を養う」というこの二つのパンの奇跡を通して、何を弟子たちに悟ってほしい、分かってほしいと願っておられるのでしょうか。主イエスが弟子たちに分からせようとしておられることは、「神さまの豊かさ」ではないでしょうか。
 すなわち、「真に豊かな神さまが顧みてくださるところでは、たとえ人間的な困難が生じたり、あるいは人間的な欠乏を覚える場面でも、きっと神さまが全てを支え、持ち運んでくださる」、主イエスはそのことを弟子たちにお示しになったのではないでしょうか。そのようなことを思いながら、今日の記事を改めて聞いていきたいと思うのです。

 今日の記事は、主イエスが大勢の群衆を招いて豊かな食卓に与らせてくださったという出来事です。主イエスがもてなしてくださったのは4,000人だったと言われています。
 しかし考えたいのですが、4,000人という数字は、きっちり人数を数えて4,000人ということなのでしょうか。そうではなくて、これは9節に「およそ四千人の人がいた」と言われていることから分かるように、あくまでも「およそ」の人数でしかありません。6章で主イエスが5,000人にパンを与えてくださった時には、人々は50人、100人の組に分けて草の上に座らされました。しかし今日のところではそうした形跡は何もなく、いきなりその場で地面に座るようにと言われています。もちろんそれでは、ピッタリの人数が分かるはずはないのです。
 「およそ四千人」の「およそ」とは、見当がつくものでしょうか。4,000という数字には、そのままの数という以上に何かの意味が込められているのではないでしょうか。
 キリスト教会の初めの頃には、数字がそれぞれに意味を持つと考えられていました。例えば数字の3は神を表す完全数、4はこの世界を表す完全数、ですから3と4を足した7も完全数で、今でもラッキーセブンと言われたりします。あるいは 3と4をかけると12、これも完全数と考えられていました。7とか12という数字は、神も人間も全て一切を含んで「すべてである」という意味で、満数と言われることもあります。そしてまた、1,000という数字は、これ以上超えることがない極限の数字と考えられていました。今日では1,000は決して大きな数字ではありませんが、しかし聖書の時代には1,000は無限に大きい数という意味を持っていたのです。
 今日の箇所で、主イエスが僅かなパンで養った人たちは4,000人だったというのは、「世界の四方からやって来た、これ以上ない無限といえるほどの群衆が、この食事によって養われた」ということを言い表しているのです。

 また、主イエスが手に取ったパンも「七つ」だったと言われます。7にも意味があるわけで、確かに僅か「七つのパン」ですけれども、しかしこのパンは、神がこの中に無限の豊かさを秘めてくださっている「七つのパン」です。
 弟子たちはこのパンを見た時に、「たった七つしかない」と考えました。4節で弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と言っています。「手元にパンは七つあるけれど、しかし自分たちが今手にしているものはごく僅かなもの、乏しいものでしかない。これだけでは決して、ここにいる多くの人たちの必要を十分に満たすことなど出来はしない」と考えています。
 ところが主イエスは違うのです。主イエスは「七つのパン」を手に取られます。ただ「七つでしかない」と思う弟子たちと違って、主イエスはそこに「神さまが私たちに与えてくださる豊かさ」を御覧になるのです。そして何をなさるかというと、6節「七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」のでした。「4,000人に分け与えた」ということは、実は、「世界中の人々に、主イエスがパンを裂いて分け与えてくださった」ということです。
 「七つのパン」が裂いて分け与えられ、そして人々は食べて満腹しました。これを見て「主イエスが空腹を満たしてくださったのだ」と考える人も、もちろんいます。しかしここで主イエスがなさっておられることは、ひもじいお腹を満たすということだけではないのです。主イエスが感謝して七つのパンを分け与えてくださることで、「パンを通して神さまが、世界中の人たちを、限りないほど多くの人たちを、御自身に結びつけようとしておられる」ということが示されているのです。

 そしてまた、このパンは、食べたら無くなってしまうのではありません。この点が今日の記事において最も理解されにくいところだろうと思います。主イエスが手に取ったパンというのは、確かに主イエスがそれを手に取られるまでは、ただのパンです。それはただの小麦粉の塊、それを焼いたものがパンです。ところが主イエスがお用いになる時には、確かにパンがパン以外のものに変わるわけではないので、パンとして人々を養うに違いないのですが、神がそこに関わってくださる時に、全てが豊かなものに変えられていくのです。
 パンが肉の糧としてのパンであり続ける限りは、それは食べたら無くなってしまいます。この給食の記事を聞くときに私たちは、神が御業に用いてくださるパンを、ごく普通の肉の糧のパンのように思いながら聞いてしまうので、いかにも不思議だと考えます。七つのパンが4,000人を満腹にする、しかもその後に「残ったパンの屑を集めると、七籠になった」となると、残ったパン屑の方が元々のパンより分量が多くなったと、つい私たちはそう思ってしまいます。
 しかし主イエスがここで示そうとしておられることは、魔法みたいにパンの分量が増える、大きくなるということではないのです。そうではなくて、主イエスがここで人々に経験させてくださったことは、「神が関わりを持ってくださるところでは、関わられたもの全てが豊かに用いられるようになる」ということです。神が関わってくださるところでは、4,000人の人々が、つまり世界中のあらゆる人々が養われる、「全ての人に対して、神があふれんばかりに御自身の豊かさを分け与えてくださる」のです。

 そしてそれでいて、神御自身は決して貧しくなられるわけではありません。神は途方もなく豊かな方なのです。世界中の全ての人々を満腹させてなお、御自身が乏しくなられることはなく、さらに豊かなものがそこに残り、さらに用いることができるようにされるのです。

 しかしそのように神の豊かさが語られている一方で、「人間の側の貧しさ」も語られています。主イエスがここにいた人々を御覧になって、2節3節「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と言われました。こう聞きますと、まるで群衆は丸三日間、飲まず食わずだったのかと思わされます。主イエスが、丸二日間は御自身と一緒にいる群衆が何も食べていないことに気付かず、三日目になってハタと気がついたという話なのでしょうか。もちろん、そんなはずはないのです。三日間何も食べていないというのは、三日という時間の話をしているのではなくて、これもやはり数字に意味が込められています。
 つまり、3という数字は神を表す完全数ですから、「三日間、食べ物がない」というのは、神からご覧になって、「人間の側には、いつも食べる物がない」ということを表しています。すなわち「人間は、生きるためにどうしても必要とするものを、自分ではどうしても手にできずにいる」ということを言っています。誤解を恐れずに申しますが、人間は生きる上で、いつも神を必要としているのです。
 けれども私たちは、なかなかそうは思わないかもしれません。街に出てこんなことを言えば驚かれてしまうかもしれません。しかし私たちは、自分一人で充足して生きているわけではない、それは確かだと思います。神という言葉は使わなくても、別の言葉で、私たちはしばしば自分に足りないものを言い表そうとするのではないでしょうか。
 例えば、「生きる上では、生き甲斐がどうしても必要だ」とか、「幸福がなければ生きている意味がない」とか、あるいは「生きている意味を見つけたい」とか、「人生の終わりに、これで良かったと言える成功した人生でありたい」とか、「高望みはしないけれども、少なくとも健康に、健全に生きたい」とか、そういうものは、私たちが自分の中に元々持っているのではなく、私たちがそれを与えられたいと願っているものです。自分の人生を成り立たせてくれる拠り所が外からやってくることを、私たちは待っているのです。

 私たち人間は、植物や動物のように、「ただ生きて、死んでいく」というわけにはいかないのです。動物も植物も、自分に与えられた命を全うして死んでいきます。植物が枯れるときに、「悲しい」と言いながら枯れるのではありません。動物も同じで、死ぬ時に、「自分の人生の意味は何だったか」などとは考えずに一生を終えていきます。ところがどういうわけか人間だけは、それでは満足できないのです。誰であっても私たち人間は、「自分が生きている意味」を求めます。自分を成り立たせてくれる、そしてまた自分の欠けを埋め合わせてくれる何かを必要とします。孤独に生きて満足だなどという人生を、私たちは送れないのです。どうしてでしょうか。

 聖書の言い方に従えば、それは人間が「神に似せて造られ、生まれながらに交わりを持つ生き物として造られているから」です。そして、交わりを必要とする人間は、自分で自分の欠けを調達することはできません。外から誰かがその欠けを補ってくれる、それを受ける他ないのです。
 そして主イエスは、そういう人間の姿を御覧になるのです。「三日間食べる物がない。本当に飢えている」、つまり「自分の人生を、欠けを抱えながら生きている」、そういう人間の姿を御覧になって、気の毒に思い行動を起こしてくださるのです。神は、その限りない豊かな憐れみによって人間を満たそうとしてくださいます。ですからパンの奇跡には、「人間に対して、神さまの慈しみと愛が限りなく注がれている」という意味が隠されているのです。

 人間は常に貧しさを抱えていますけれども、神は真に豊かでいらっしゃいます。神は人間の貧しさを御覧になって、世界中のあらゆる人に心を寄せてくださり、私たち人間を御自身の豊かさの中を生きるようにと招いてくださるのです。そのことを経験させられたからこそ、最初のキリスト者たちは、「5,000人の給食、4,000人の給食」として言い伝えられている出来事を、本当に嬉しい麗しい話として自分たちの間で伝えたのです。「私たちにどんなことがあっても神さまが必ず顧みてくださり、どんなに困難な時にもどんなに困り果てる時にも持ち運んでくださる。湖の上で嵐に遭遇して漕ぎ悩み、もうこれ以上進めなくて困っている時には主イエスが不思議な仕方で助けに来てくださったし、あるいは手元には僅かな貯えしかなく生活が立ち行くだろうかと心配している時にも、神さまがそういう私たちを顧みて、必ず私たちをそこで支え持ち運んでくださる」、キリスト者というのは、信じたら皆が皆、億万長者になって地上の生活を過ごせるというような御利益が約束されているかというと、そういう人生ではないのですけれども、私たちそれぞれに与えられる人生は、「神がいつも顧みてくださる人生」です。神は、「これはわたしがあなたに与えた人生だ」と言って、私たちにとって必要なものとしてこの人生を与え、終わりまで持ち運んでくださるのです。そういう神がおられるのだということが、この「4,000人の給食、5,000人の給食」の出来事を通して弟子たちに示されているのです。

 神が御自身の豊かさの中に私たちを包み込んで、温かく支え、持ち運ぼうとしてくださっていることを覚え、また信じる者とされたいと願います。私たち自身には、確かにそれぞれ人によって違いますけれども、皆欠けがあり貧しさがあり、そしてそこから来る不安や痛みもあります。しかし、そういう私たちが神に顧みられ、そして今日を生きる上で必要なものを与えられ一日一日を過ごすように導かれ、持ち運ばれて、終わりまで歩むように招かれて行くのです。そのような、「神の豊かさに包まれ、生かされていることを知る」者として、慰められ励まされながら、共に生きる人たちを思いやって生きる、そういう幸いな者とされたいと願います。お祈りをいたしましょう。

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